今朝、ヤフーニュースを見ると、原発で「また」想定外のことが起こっている。「メルトダウン」だそうだ。 完璧なものなどない!と言いながら、システムは「完璧である」と想定している良い例である。
常識的に考えて、水と金属の比重を比べると・・・・金属は地球上では必ず 下へ落ちる。 落ちたとき(メルトダウン)のことを想定していなかったのだ。
「足元を見ていない」というが、文字通り 足元にある「重力」を想定していなかった。
想定外の上塗りである。
「メルト・ダウン」 メルト・・・解ける ダウン・・・下へ
「メルト・ダウン」という言葉が人類のトラウマになってしまう。
カムイ・アーツの動画をご覧あれ・・ http://www.youtube.com/watch?v=pExl9cy9BQg
これも「メルト・ダウン」である。 なぜ、崩れるのか? 重力があるからである。
普段はストレスになっている「重力」を「受け入れる」と・・・重力(地球からの恵み)が「癒し」に変わる。
きちんと重力を受け入れると癒しとなる。
地面に崩れたまま、さらに受け入れると、さらに癒されることを受容性のワークを体験した方々は身を持って知ったはずである。
これは「落下」ではなく「落花」である。
落花流水(メルト・ダウン)の術
※落花流水(らっかりゅうすい)
落ちた花びらは流水に浮かびたい。流水は花びらを浮かべて流れたいという気持ちがある。すなわち男女が互いに慕い合うこと。相思相愛。
ひとつの生命が生まれるとき、高揚した喝采が響く感覚を身の内に感じる 祝福というものかもしれない。
新しい流儀が創造されるときも同じかもしれない、私達は今それを感じている。 命の躍動、長男の誠人が生まれるとき、私はそういう感覚を体験した。 震えるような、恐怖にも似た感覚
妻は「家族が一人増えた」と表現した。 初めて見る長男に向けた初めての言葉は 「こんにちは」だった・・・・・
新しい命に向き合った感覚 血の匂いが混じっていたかもしれない なにかとてつもない真新しいことの始まりには血の匂いがあるのかもしれない。
もうすぐ、妻が出産する。また家族が一人増える! 男の子だそうだ。
そして、カムイワークなるものが「カムイ・アーツ」へと進化した。 カムイワークとして始まったものが、新しく再出発、いや真新しいものとして再生された。 同時に今までのものは破壊された。古きものへの別れの苦しみかもしれない 血が流れたかもしれない。しかし、同時に、古きものを洗い流す血でもある。
流儀という形をもたないものも、命も誕生の瞬間は同じであるということかもしれない。
古きものが新しく入れ替わる感覚はこういうものだろうか? 血が繋いでくれる創造と破壊の境目・・・・・・・・・。
カムイ・アーツのホームぺージも作成した。。『カムイ・アーツ公式サイト』 『動画』も更新した・。
今後は膨大な量の「生きる知恵」(情報)を縁ある人々と分かち合っていく基盤ができた。
正しい破壊の後には新しい創造(再生)が付いてくる。
「生き急ぐ」必要は何もない・・・・・・・・・。
しばらくブログを休止していましたが、こちらに引越して心機一転、再開します。
書くことがなくて休止していたにではなくて、多すぎて・・・深すぎて・・・・文章では表現できないことばかりで・・・
ブログは日々更新できなくても、自分は日々更新・・という日々が続いていました!
大阪は昨日も雪が降り積もり、私が買い物に行く道も真っ白でした。
妻がもうすぐ出産なので、雪で滑っては危ないと思い、私が買い物へ出かけたのですが、歩き始めて数分もしないうちに、靴底の雪が固まり、「氷の靴底」が出来上がりました。
私とすれ違う人々も、「転ばないように」に夢中で、私にぶつかってきたり、私もそれを「避けること」と「転ばない」ことに四苦八苦でした。
ちょっと道の状態が変わっただけで、混乱状態の都会人ですが・・・・・
ここからが「カムイ」の出番です。
何故、足元に囚われるのか?
自分に何が起こっているのか?
自分という心身が「どう変化しているのか?」がわかれば容易いものなのです。
心の場面では「転ばないように!」にシフトしています。
身体のほうも、同じく「転ばないように!」です。
説明すると長くなるので、簡単に言うと・・・・
「転ばないように」 を 「転んでもいいように」 変えればいいのです。
右手に持っている買い物袋、左手に持っている傘・・・転んだときには、すぐに「手放す」状態を創ります。
そして、自分は「受け身」という技が出来ることを自分に再認識させます。
「いつ転んでも、OK・・怪我もしないし、恐怖もない」
そうすると、不思議なことに、寒さで「かじかんでいた」手指が暖かくなってきました。
「転ぶまい」と踏ん張っていた足が自由になり、滑ることを楽しむ足となりました。
何だ、受け身が出来るからリラックスしただけじゃないか!
そう早合点することが人間の悪い癖です。
『氣付き』とは永遠に続く「学びの連鎖」です。
深まって、生命の神秘に辿り着いたときに、本物の「氣付き」となります。
「転ばない」とは、変化を否定することです。
変化への恐怖ともいえます。
「転んでもいい」とは変化を受け容れることです。
買い物袋と傘を大切に握り締めたまま、受け身は出来ません。
執着していては手放せない・・・
「転ばないように」とは生命の危険から自分を守りたい、という要求です。
心身は非常事態の信号を発して、全身(心)に知らせます。
心身は「防御」の状態にシフトしますが・・・・「守る」=「固める」や「生への執着」となって心身に表現されます。
なぜ、そうなるのかは色々な原因があり、過去の体験や教育からくるものがほとんどです。
「溺れる者、わらにもすがる・・」
転ぶ恐怖(変化への恐怖)が自分を持っている買い物袋や傘(わら)にすがろうとさせます。
本当に大切なものは「自分」ではあるのに・・・・
「心身の非常事態」の状態とは、「転ばない」ではなく「転んでもいい」状態のことなのです。
「転ばない」ことに囚われた状態とは・・・感じて見てください。雪や道の固さに意識が行ってしまっています。
「転んでもいい」状態とは「自分の全身」に注意が行っています。自分の状態(存在)を大切にしている状態です。
そして、ツルツル滑る雪に恐怖や苛立ちを持たず、雪を楽しんでいる状態です。雪道と自分が一体化した状態なので雪道を楽しむ以外にすることがありません!
雪道を歩く事に「慣れる」ことも大切かもしれませんが、「慣れた」状態では「氣付き」は起こりません。
「初心に戻る」ことが「氣付き」への道でもあるのです。
武道的に表現すると・・・・非常状態とは「戦闘状態」です。
アドレナリンなどの物質によって心身が「受け容れる」状態になります。
「死」をも受け容れる状態となるでしょう。
「守る」「攻める」という結果を手放し、自分に起こる全てのことを「受け容れる」
敵と自分という関係をも超えて、ただ二人の舞(生命の共有行為)
雪道を楽しむレベルを超えた「なにか」
敗れて、命を失い行く戦士が最後に体験することは・・・・「生命の神秘」だったのではないでしょうか?
私は人生は「闘い」だと思っています。
「争い」は「争い」を生むだけ、「闘い」は「命の学び」
昔の武士達は「生命の神秘」を当たり前のように体得していた・・・
どこかにそれが残されているはず・・・・・
その「宝」を見つけなければ・・・・・・
そういうロマンを感じながら、雪道を歩いていました。